人が発する言葉。
仕事の現場、友人との会話、SNS・・・
日々、人は色々な場面で色々な「言葉」を発信しています。
山のように溢れる「言葉」たち。
もちろん、全てを受け取りきれない量の情報が溢れているわけですが、
それでも、なぜか、時に、
ある人の言葉がすっと心の中に入ってくること、
しっかり印象に残ることってありませんか。
それはなぜなのでしょう。
大量の個人的な発信が流れてくるSNSを例に取っても
文化人ような知的でウィットに富んだ文章
大和言葉の奥ゆかしさ
言葉を巧みに使いこなし、
文章やお話で、思わず魅了する人たちがいます。
そんな豊かな表現ができる人を前にすると、
人の心に訴えかける言葉を綴るのは、
ある種の「才能」のように感じられることがあります。
だけど、私は最近思うのです。
どんな拙い言葉でも、
「その人が、本当に感じていることに誠実になって発している言葉」
ならば、必ず受け手には単なる言葉以上の何かを届けることができるんだろうと。
それってやっぱり
「ことだま」
だと思うんですよね。
その言葉にその人の魂がのっているかどうか。
それはわかりやすく言えば、歌やお芝居のようなもの。
選び抜かれ、洗練された言葉が羅列されて作られた作品であっても
歌い手、演じ手が棒読みでそれを表現したなら、何も印象には残らない。
それと同じで、日常においては、「誰かの言葉」を借りて話していると
その内容がどれだけ正しそうであっても、技巧が凝らされた表現であっても
受け手にはとても上滑りなものに感じられてしまう。
(政治家さんの街頭演説とか、それを感じてしまうことがあります^^;もちろん全てじゃないけど)
そして、対面においては、自分の言葉で語っているかどうかで
その人から滲み出るオーラのようなもの、その場の空気まで一変する。
なんか、魔法にかけられた気分になることもあります。
そーゆう時、言葉は、もはや単なる情報以上のものなんだと思います。
本当に不思議ですね。
私は、そうゆう自分の魂が乗った言葉を話していけるようになりたいし
本当にそんな言葉で誰かと語り合えた時って、すごく幸せなんですよね。
その時間が、普通の時間軸と離れて、時が止まったような感じになることもあるし、濃密で、豊かになる。
ただいつもそうあれるわけじゃないし、
世の中のひともそうだと思う。
それは、みんな社会の中でいろんな「役割」を担っていて、
その「役割」にふさわしい言葉、表現を発しないといけない状況がとても多いから。
実際、そうしなければいけないわけじゃないけど、
仕事で、家庭で、いろんな役割を担う中で、
ある時肩書きから外れて、まっさらな自分にすぐ切り替えられるほど私たちは器用ではないですよね。
反対に、どんな状況であっても変わらない自分であることも、切り替えることと同じくらい難しい。
もしくは、両方が混ざり合って、自分の感覚がわからなくなっている人もいると思う。
だけど、もっと人が、自分の言葉で話せるような世界になったらいいなと思います。
自分の言葉で表現できることって
人にとって、他との比較じゃない自分の感覚に根ざした生き方をするための第一歩、
そしてそれぞれの「幸せ」に繋がると思うから。
私もそうありたいし、そうゆう関係って楽しいし。
さて、何ができるのだろう。
今日はある素敵な文章を目にした時に、
そんなことをはたと思いつき、書いてみました。
ちゃんちゃん。^^